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【ドライオーガズムを哲学する】タントラ的アプローチ④:タントラでドライオーガズムに達する方法とコツ

研究報告

ドライオーガズムを達成してなおその道を究めようとしている僕が、日々のドライオナニーで見つけたこと・考えていることなどを発表していく【研究報告】シリーズ。

今回は、「ドライオーガズムとタントラ的価値観~西洋の絶頂観を超えて~」というテーマで、全5回に渡ってお送りしています。

「哲学」とか「タントラ」とか聞くと、何やら難しそうなイメージだったりスピリチュアルな空気感を感じたりするかもしれませんが、そこまで堅苦しい説明をするつもりはありません。

できる限り簡単な文章で、あなたのこれからのドライオナニーにきっと役立つ情報を提供しますので、是非シリーズを通してお読みいただきたいと思っています。

前回は、「③タントラ的世界認識」ということで、従来の性に対する僕たちの考え方とは異なる「タントラ」の考え方のお話をしました。

今回は、いよいよ「④タントラでドライオーガズムに達する方法とコツ」についてです。

前回ご紹介したタントラの考え方を踏まえ、それをドライオーガズムの実践に適用していきます。

タントラは本来、瞑想やヨガ、セックスなどを通じて実践していくものですが、ここではそのような話はせず、ちゃんとオナニーで気持ちよくなれる方法のお話をします。

また、ドライオーガズムの話でよく使われる

「ドライは女性的な快感」
「射精とは全く別方向の意識が必要」
「ドライはイくものではなく、クるもの」

といったような抽象的な表現についても、分かりやすく解説していきます。

タントラの考え方は、単なる理論ではなく、実生活に取り入れることで大きな効果を発揮します。

この記事では、タントラの基本をおさらいし、その考えをドライオーガズムに取り入れる方法を探ります。

ドライオナニーの際の意識の持ち方のコツなどのアドバイスとともに、快感を追求することの意義についても考察しますので、ぜひ最後までご覧ください。

尻飛び修士
尻飛び修士

まだドライを経験していない初心者の方から、経験済みの上級者の方まで役に立つこと間違いなし!

シリーズ「ドライオーガズムとタントラ的価値観~西洋の絶頂観を超えて~」
はじめに
性感に対する従来的認識
タントラ的世界認識
④タントラでドライオーガズムに達する方法とコツ(←今ココ)
まとめ

タントラとドライオーガズム

前回のお話で、タントラとはどのようなものであるかについてお話をしました。

しかし、タントラとドライオーガズムの間には、一体どのような関係があるのでしょうか。

本章で見ていきましょう。

タントラのおさらい

まず、タントラについての簡単なおさらいをしましょう。
詳しく知りたい方は、「③タントラ的世界認識」の記事をご覧ください。

さて、タントラとは古代インドから伝わる、民衆の生活に根付いた教えのことでした。

民衆の生活に根差しているので、当然にして、性に関するリアルな考え方も含まれていましたね。

西洋流の近代文明と比べると、次のような特徴があります。

〇近代文明の考え方
1.「自分」と「それ以外のもの」を分けて考える
2.禁欲的な生活を推奨する
3.キーワードは「分離」

〇タントラの考え方
1.「自分」は「それ以外のもの」と本質的に同じ
2.すべての欲望を全面的に受け入れ、解放する
3.キーワードは「合体」

さらに、タントラは次のような考え方を持っています。

「『自分』も『それ以外のもの』も本来は同じものであるので、それらを合一であると悟り、『合体』させることによって人間本来の力が最大限に発揮され、その際に素晴らしい恍惚感が得られる。」

西洋では「自分」と切り離して考えられて抑制を求められていた欲望も、タントラでは「自分自身」であり、受け入れるべきものとみなします。

そのようにして精神と肉体を「合体」させることができれば、人間はこの上ない快感が得られるというのです。

セックスが重要視されるのも、男女の「合体」であるからですね。

タントラとドライオーガズムの共通点

では、タントラとドライオーガズムの間には、どのような関係があるのでしょうか。

実は、少なくとも僕が調べた限りだと、タントラの教え自体にドライオーガズムが直接登場するわけではありません。

しかし、そこには驚くほどの共通点を見出すことができます。

まず、タントラは男性と女性を本質的には同じだと捉え、瞑想によってその性質を合流させることが必要だと説きます。

そしてそれを悟ったときに言い表せないような恍惚感が得られるといいます。

一方でドライオーガズムは、プレイ中に一種のトランス状態(変性意識:瞑想中のような状態。)になることで、男性が女性のような快感を感じ、最上級の絶頂に達します。

この二つ、とても似ているとは思いませんか?

ちなみに、タントラでは男性よりも女性の方が優位であると説明されています。

ドライオーガズムで男性が「女性側の快楽」に合流するのも納得ですよね。

さらに、タントラで瞑想を実践する際には、最初に会陰部や尾てい骨に意識を集中させます。

理由はそこに「女性的な力の源」が眠っているとされるからで、その力を第二の力の源である性器の奥の部分(男性でいえば前立腺のあたり)を通して、頭部にある「男性的な力の源」に向かわせ、合流させることで悟りの境地に至ります。

ドライオーガズムも前立腺あたりに発生した快感がどんどん広がっていき、頭にまで到達すると真っ白になるほどの絶頂が得られます。

そして会陰部や尾てい骨は、ドライオーガズムでも重要視されている部分です。

実際、アネロスのような前立腺マッサージ器は会陰部と仙骨(尾てい骨の近く)に軽い刺激が入るようになっています。

※↓画像の「Wベース」と呼ばれている部分。

また、タントラで欲望の解放が重要だとされていることと、ドライオーガズムで快感や声を我慢しない方がいいと言われていることも似ていますよね。

このように、タントラの教えとドライオーガズムの間には強い類似性・親和性を見ることができるのです。

そうである以上、タントラの教えをドライオーガズムに応用しない手はありません。

次の章では、タントラの教えをドライオーガズムのプレイとして実践し、最高の快感に至る方法やコツを考察します。

タントラの教えからドライオーガズムを実践してみる

この章では、いよいよタントラの教えから学んだことをプレイに当てはめて実践し、最高の快感であるドライオーガズムに達する方法とコツについて考えていきます。

ドライオーガズムで使われる表現を考える

ドライオーガズムの説明の際には、しばしば

「ドライは女性的な快感」
「射精とは全く別方向の意識が必要」
「ドライはイくものではなく、クるもの」

などといったような抽象的であいまいな表現が使われることがあります。

ドライを経験したことがあればこれらの表現はよく分かるのですが、未経験者だとどういうことなのか分からないということも少なくないでしょう。

本項ではそれらの表現を、タントラの教えに即しながら初心者の方にも分かりやすく説明します。

表現の解説を理解した上でどのようにプレイすればよいのかは、次項でお話しします。

表現①「ドライは女性のような快感」

ドライオーガズムは、「女性のような快感で、射精せずに何度もイける」と表現されます。

これをタントラの視点から分析してみましょう。

すでに述べたように、タントラによれば、男性と女性は本質的には同じです。

しかも女性の方が優位なので、男性が悟りを開けるほどのトランス状態に至れば、内なる「女性性」が開花し、女性のような快楽を経験するのは当然と言えるでしょう。

ですから、男性が女性のような快楽を経験することは全く不思議なことではないのです。

これは、次に紹介する「射精とは別方向の意識が必要」という表現にも繋がっていきます。

表現②「射精とは別方向の意識が必要」

「ドライオーガズムに至るには、射精するときとは別方向に意識を向ける必要がある。」

これもドライの解説でよく見る表現ですね。

僕たちを支配している近代文明的な表現をすれば、射精とは「精液の発射という物理的な現象に快感が伴うゴール」です。

言い換えれば、射精自体は自分と切り離された「自分以外のもの」に属する現象といえるでしょう。

タントラの考えによれば、「自分」も「それ以外のもの」も本質的には同じだということはもう確認しましたね。

つまり僕たちが普段行っている射精とは、「『自分以外のもの』に属する現象をゴールとして設定し、それを目指すことで快感を『自分』から切り離してしまう行為」なのです。

タントラの教えのキーワードは「合体」です。

快感を自分と対比させて置くのではなく、自分自身が快感そのものとなることの重要性を、この表現は端的に表しているのです。

表現③「ドライはイくものではなく、クるもの」

これもよく聞く表現ではないでしょうか。

ここでは、「イく」とは快感を自分で手繰り寄せようとすること、「クる」とは快感が自分のほうにやってくることを指しています。

タントラでは、瞑想によって「自分は世界とひとつである」と悟りを得ます。

では、このような悟りを得たいとき、あなたならどうしますか?

積極的に世界の一部になりにいくでしょうか。

いいえ、あくまでも自然体で静かにたたずむことで、世界という背景に溶け込もうとするはずです。

そう、タントラ的な悟りを得ようとするのであれば、あなたは自我への執着を捨て、世界のすべてを完全に受け身の姿勢で受け入れなければなりません。

ドライに変換しなおせば、「イきたい」という感情は強烈な自我そのものです。

そうではなく、やって「クる」快楽を無条件に受け入れることが必要なのです。

そうして世界と「合体」したときにこそ、極上の恍惚感が待っているとタントラは教えているのです。

表現④「これはドライなのでしょうか」

これは解説というより、みなさんからいただく質問でよくみられる表現です。

ドライオナニー中、「なんか気持ちよかったけど明確な絶頂感は感じなかった」、「これはドライオーガズムなのだろうか」。

このような体験をしたことがある方は少なくないのではないでしょうか。

このよくある疑問は、「快感とはこうあらねばならない」という心理に起因しています。

そしてそれは、「快感は『自分』とは別のものである」という根本的な意識に根ざしているのです。

近代文明は「客観的に存在する絶対的真理」に重きを置いてきたので、そのように考えてしまうのも無理はありません。

しかし、タントラではそのようには考えません。

自分から切り離された絶対的真理、つまり「こうあらねばならない快感」というものは存在しないのです。

ドライ経験者の僕から言わせてもらうと、ドライオーガズムの中には射精を超えない絶頂点も存在します。

※↓射精とドライの快感をグラフ化したイメージ図。図表にある1回目のドライの山(=絶頂点)は、射精より低いことが分かる。図はあくまでイメージであるので、2回目には射精と同等のドライに達するということを示しているものではない。

重要なのは「自分」が快感であるのかどうか、つまり先入観として持っている「イった/イってない」の基準を捨てて、「今、自分自身が気持ちいいのかどうか」に焦点を当てることなのです。

タントラ式ドライオーガズムを実践してみる

タントラの教えとドライオーガズムの理論部分が分かったところで、実際にどのような意識を持ってプレイをすればいいのかが分からなければ意味がありません。

ここでは、これまでの理論的説明を元にして、ドライオーガズムを目指す際のプレイ時の方法やコツについて考察していきます。

ドライオーガズムを捉えなおす

本シリーズの第1~3回を含めて、これまでの考察を読んでいただいた方は、既にドライオーガズムに対する認識が変わりつつあるかもしれません。

しかし、ここで一度しっかりと言語化しておきましょう。

まずドライオーガズムとは、本質的には女性と同じである男性が、それを悟り、すべての欲望を受け入れて内なる「女性性」を開花させたときに得られる、至高の快楽のことです。

「『隠れた性感帯』である前立腺を刺激し、快感が一定の域に達したときに得られる絶頂」という近代文明的な表現が間違っているわけではありません。

しかしそれは、快感を「自分以外のもの」と捉えて「自分」に引き込もうとする射精の方法と根本的には同じライン上にある説明の仕方であって、誤解を招きかねない表現です。

実際、まだドライを達成できていない方々の多くは、この説明に依拠してプレイしてきたのではないでしょうか。

もしそれでドライオーガズムに達せていないのであれば、一度ドライに対する認識を大きく転回させてみましょう。

自己拡張と自己解放

ここでドライオーガズムに関する補足的な説明として、「快感による自己拡張」と「自己解放による快感」のお話をしておきます。

これについては第2回で詳しく触れているので、まだご覧になっていない方はそちらを一度ご覧ください。

さて、西洋流の近代文明的な性感認識は自己実現の方法としてのものでした。
これを「快感による自己拡張」と呼びましょう。

しかし、タントラ流の性感の解釈は、自己を解放したときに結果として得られるものです。
これは「自己解放による快感」です。

そしてドライオーガズムは、経験上明らかに後者にあたります。

以下に二つの概念の比較を載せておきます。

〇快感による自己拡張
社会(=他人との関係)における自己を実現しようとするもので、いわば「性の解放が認められていない社会にもかかわらず、それに逆らって自分は快楽を得ている」というアピールによって自分自身の存在を主張しようとするもの。そのために快感を手段として利用する。

〇自己解放的な快感
世界(=無生物も含む全てのものとの関係)と自己を「合体」させようとするもので、世界に対して自分を溶け込ませていく、一体化させていく過程で得られる快感。

上記で見て分かる通り、「快感による自己拡張」では「自分」に執着し、「自分以外のもの」である快感を手段として利用します。

例えば、綺麗な人を抱き、射精によって独占的な地位を得ようとすることなどがこれにあたります。

これは快感ではなく社会における自己実現が目的となっており、ドライオーガズムの精神には適しません。

ドライオーガズムのプレイにおいて「男性優位のおかずは使うべきではない」と言われるのも、このような考えがドライに合っていないためです。

一方で「自己解放的な快感」は、「自分」と「それ以外のもの」を本質的に同じであると理解し、二つを合流させようとするものです。

これは男性の中にある「女性性」との合流でもあり、「自分」と「快感」の合流でもあります。

もしあなたが内なる自己である「女性性」と合流し、また「快感そのもの」になることができれば、肉体的な快楽だけではない精神的な絶頂、いわゆる「女性型ドライ」と呼ばれるような、頭が真っ白になるドライオーガズムに出会えることでしょう。

それには、快感と対峙することのない、むしろ「共にある」という意識の持ち方が重要となります。

ドライオーガズムにおいては、快感を得ようと必死に戦う必要はないのです。

快感を「受け入れる」こと

タントラにおいては、欲望や感覚、現状といった全てのものを全面的に受け入れ、精神と肉体を一体化させることによって人間の力を最大限に発揮させようとします。

やはりキーワードは「合体」「合流」「一体化」なのです。

ということは、快楽は「受け入れる」ものであって、「感じにいく」ものではありません。

射精のように絶頂というゴールを目指して必死にもがくのではなく、「感じたい」という強い自我を失わせ、全ての欲望を平等に開放することがドライオーガズムには必要なのです。

おもちゃが与えてくれる「外からの刺激」ではなく、内なる自己にこそ目を向ける。

おもちゃが発生させる物理的な快感はそのきっかけにすぎません。

「ドライは『イく』ものではなく『クる』もの」というのは、この表現なのです。

快感に基準を設けないこと

これは「表現④『これはドライなのでしょうか』」で話したことの繰り返しになりますが、快感を受け入れる上で重要なことなのでもう一度簡単に説明しておきましょう。

タントラにおいて、射精のように決まった快感、「こうあらねばならない」という快感は存在しません。

あえて比べたとしても、ドライオーガズムの波の中には射精以下のわずかな快感から射精をはるかに超える快感まで様々あります。

重要なのはそれら全てを平等に絶頂として捉えてあげることであり、自分が少しでも気持ちいいと思えるかどうかです。

ドライ未経験の方ほど射精を基準に快感を捉えがちですが、そのような絶対的な基準を設ける必要はないのです。

このような意識でプレイを重ねていけば、いつの間にかあなたはドライ経験者となっていることでしょう。

ドライオーガズムを追求することは悪じゃない

最後に、私生活とタントラ/ドライオーガズムの話をしましょう。

皆さんの中には、ドライオーガズムを試してみたり、快楽を追求することに後ろめたさを感じている方もいるかもしれません。

それが背徳感となって興奮するのであればいいのですが、むしろそれによって一人なのに緊張したり、プレイ中に雑念が入ってきて集中できない方もいるでしょう。

タントラの教えは、その必要がないことも教えてくれています。

タントラにおいて最高の絶頂が、「精神と肉体」あるいは「宇宙と自分」の合一の結果として得られることを考えれば、その行い(合一によって真の現実世界に足を踏み入れること)を非難されるいわれはありません。

仏教のお坊さんが悟りを開こうとしていることを非難する人がいるでしょうか?

タントラやドライオーガズムのことを全く知らない人間が、僕たちの行為をポルノだの快楽中毒だの否定するかもしれませんが、その言葉に意味などありません。

自分が凝り固まった西洋流の近代的価値観に染まっていることにすら気づけない無知な人間を横目に、最高の快楽を体験することにただ没頭すればよいのです。

最後に

今回は、本シリーズ「ドライオーガズムとタントラ的価値観~西洋の絶頂観を超えて~」の本丸ともいえる、「タントラの教えのドライオーガズムへの適用」というテーマでお話をしてきました。

普段の価値観ではなかなか見えてこないドライオーガズムの一側面が、タントラという古代インドの教えを通じて見えてきたのではないでしょうか。

そこには、ドライオーガズムを実践する上での新たな方法やコツが隠されていましたね。

ここまでなかなかのボリュームな文章となってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。

この考察が、皆さんのドライオーガズムライフに少しでも役立てることを心から願っております。

次回はシリーズ最終回、「⑤まとめ」になります。

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