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【ドライオーガズムを哲学する】タントラ的アプローチ⑤:まとめ

研究報告

ドライオーガズムを達成してなおその道を究めようとしている僕が、日々のドライオナニーで見つけたこと・考えていることなどを発表していく【研究報告】シリーズ。

今回は、「ドライオーガズムとタントラ的価値観~西洋の絶頂観を超えて~」というテーマで、全5回に渡ってお送りしています。

「哲学」とか「タントラ」とか聞くと、何やら難しそうなイメージだったりスピリチュアルな空気感を感じたりするかもしれませんが、そこまで堅苦しい説明をするつもりはありません。

できる限り簡単な文章で、あなたのこれからのドライオナニーにきっと役立つ情報を提供しますので、是非シリーズを通してお読みいただきたいと思っています。

前回は、「④タントラでドライオーガズムに達する方法とコツ」ということで、ついにタントラの考えをドライオーガズムに適用し、ドライオナニーの方法やコツを新たな視点から考察しました。

今回の記事はシリーズ最終回となる「⑤まとめ」です。

このシリーズを始めた意図や意義についても触れながらシリーズ全体の要約をし、最後にまとめあげます。

ぜひ最後までご覧ください。

尻飛び修士
尻飛び修士

まだドライを経験していない初心者の方から、経験済みの上級者の方まで役に立つこと間違いなし!

シリーズ「ドライオーガズムとタントラ的価値観~西洋の絶頂観を超えて~」
はじめに
性感に対する従来的認識
タントラ的世界認識
タントラでドライオーガズムに達する方法とコツ
⑤まとめ(←今ココ)

シリーズの意図と意義

ここまで全5回に渡って展開してきた研究報告シリーズ「ドライオーガズムとタントラ的価値観~西洋の絶頂観を超えて~」。

第1回でも多少触れているのですが、全ての考察が終わったところでもう一度このシリーズを始めた意図や意義についてまとめておきます。

シリーズの意図

本シリーズの意図は、端的に言えば「従来の絶頂認識から解放されることで、ドライオーガズムについての新たな認識を手に入れてもらう」ことにありました。

経験者の方であれば分かっていただけることと思いますが、ドライオナニーは通常の射精オナニーとは違ったアプローチが必要です。

しかし、初心者の頃の僕自身がそうであったように、射精感覚とらわれてしまうことが原因で未経験の方はドライオーガズムを感覚的に掴めないことがほとんどです。

そこで、皆さんの「絶頂に対する認識」を白紙に戻した上で、ドライ用の絶頂認識を再構築してもらってみてはどうか、そんな思いで書き始めたシリーズになります。

シリーズの意義

本シリーズは、まず西洋的な絶頂観を先入観であるとして批判することから始め、そこにタントラの考えを取り入れることでドライオーガズム認識の転回を図ろうとするという、少々複雑なアプローチをとりました。

全体的に説明的でお堅い内容が続いてしまいましたが、丁寧に順序だてて分析していったことにより、第4回においては新しくも大胆なドライオーガズムの説明を果たすことができたと考えています。

ここで強調しておきたいのは、ドライがタントラのものであるとか、西洋的絶頂観ではドライができないとかいったことではありません。

大切なのは、固定観念にとらわれない、あらゆる角度からの視点でドライオーガズムを実践してみることで

そういう意味では、タントラも多様に存在する内のひとつの考え方でしかありません。

しかし、その「あらゆる角度からの視点」のひとつを、本シリーズにおいて提供できたのではないかと思っています。

シリーズの要約

ここでは、第2~4回に及んだ各記事の簡単な要約をすることで、シリーズを概観することにしましょう。

ドライオーガズムに対する西洋的価値観とタントラ的価値観

まず、西洋とタントラのそれぞれの世界観を表で見てみましょう。

〇西洋(近代文明)の考え方
1.「自分」と「それ以外のもの」を分けて考える
2.禁欲的な生活を推奨する
3.キーワードは「分離」

〇タントラの考え方
1.「自分」は「それ以外のもの」と本質的に同じ
2.すべての欲望を全面的に受け入れ、解放する
3.キーワードは「合体」

西洋では「主客図式」と呼ばれる、「自分」と「それ以外のもの」を分けて考える発想がありました。

つまり快感も自分から分離した「他者」であり、それをゲットしようとするというのが僕らを支配する西洋的な価値観です。

一方で古代インドから伝わるタントラの考えでは、「自分」を含む全てのものは本質的に同じであるとみなします。

よって、タントラにおいては一見分離してみえる「自分」と「それ以外のもの」を合体、合一のものとすることこそが大切なのだとされます。

ドライオーガズムは、快感を自分の意のままに操ろうとして得られるものではありません。

むしろ、快感に自分を溶け込ませ、「自我」を喪失させていく過程で得られる最高の恍惚感なのです。

まとめ

ドライオーガズムは、僕たちが慣れている射精とは全く別の快感です。

だからこそ、射精によるイき方を基準とした説明ではなかなかドライに達することができないのです。

そんなときは、一度自分の中にある先入観を取り去り、形式ではなく「何が重要なのか」という中身の本質を見抜く必要があります。

本シリーズでは、そのために「タントラ」と呼ばれる古代インドの考えを導入しました。

タントラによるドライオーガズム認識の転回は、きっと多くの人のドライオナニーライフに貢献してくれることでしょう。

執筆後記

僕がこのシリーズを思いついたきっかけは、実は本業の仕事が行き詰まったことにありました。

具体的に何をしているのかは皆さんのご想像にお任せしますが、その仕事の中で、どうにも解決できない問題にぶち当たったのです。

出せる手がなくなった僕は、いっそのこと0から問題を捉えなおしてやろうと、その基盤となっている近代文明的な認識から問い直すことにしたのです。

手がかりとなったのは、「宗教は禁欲か欲望の解放という二つの極端な教義に収束する」という知り合いの宗教学者の言でした。

ならばとばかりに、西洋的・近代文明的な教義の真逆をいくタントラを分析することとしたのです。

意外にもそこで、タントラの教えとドライオーガズムの親和性が高いという、思わぬ副産物を手に入れました。

これはぜひ考察をした上で皆さんに共有をしたいと思い、この記事シリーズを書き始めた次第です。

ここまで全5回に渡る記事を読んでいただいた方には厚く御礼を申し上げます。

ありがとうございました。

それでは、皆さんのドライオーガズムライフがより素晴らしいものとなることを願って、ここで筆を置きたいと思います。

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