ドライオーガズムを達成してなおその道を究めようとしている僕が、日々のドライオナニーで見つけたこと・考えていることなどを発表していく【研究報告】シリーズ。
今回は、「ドライオーガズムとタントラ的価値観~西洋の絶頂観を超えて~」というテーマで、全5回に渡ってお送りしています。
「哲学」とか「タントラ」とか聞くと、何やら難しそうなイメージだったりスピリチュアルな空気感を感じたりするかもしれませんが、そこまで堅苦しい説明をするつもりはありません。
できる限り簡単な文章で、あなたのこれからのドライオナニーにきっと役立つ情報を提供しますので、是非シリーズを通してお読みいただきたいと思っています。
前回は、「①はじめに」ということで、今回のシリーズの全体像のお話をしました。
今回は「②性感に対する従来的認識」についてです。
早くから西洋化を目指してきた日本にとって西洋の価値観は主流のものであるため、西洋を批判的に見ることでドライオーガズムの達成を邪魔する先入観を排除することは重要でしょう。
この記事では、西洋のオーガズム観がどのようなものであるかを考え、オーガズムについての認識を探求します。
そして、最高の快感であるドライオーガズムに至るための材料を提供します。
まだドライを経験していない初心者の方から、経験済みの上級者の方まで役に立つこと間違いなし!
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☆シリーズ「ドライオーガズムとタントラ的価値観~西洋の絶頂観を超えて~」
①はじめに
②性感に対する従来的認識(←今ココ)
③タントラ的世界認識
④タントラでドライオーガズムに達する方法とコツ
⑤まとめ
西洋の主客図式とオーガズム観
みなさんは「主客図式(しゅかくずしき)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
この後解説しますが、実はすごく簡単な概念です。
しかしこの主客図式、簡単でありながらも僕たちのドライオーガズムを邪魔する強烈な考え方なんです。
この章では、その主客図式が僕たちの中にある「オーガズム認識」に与える影響について考えていきます。
「主客図式」とはなにか
主客図式とは、簡単に言えば「主観」と「客観」に分けて物事を考える図式のことです。
一見するとなにやら難しく聞こえますが、すごく単純なことなので例を挙げてみましょう。
例えば皆さんの前にスマホがあるとします。
ではそのスマホはどのように「ある」のでしょうか?
考え込まなくても大丈夫ですよ。
ほとんどの人にとって、そのスマホは「自分とは別に存在している」と考えるでしょう。
これこそがまさに主客図式なんです。
「主観」とは自分のこと、「客観」とは自分以外のこと。
主客図式とは、「まず自分がいて、そして周りに他のものが存在している」という当たり前すぎる物事の見方のことを言うんですね。
なので、「自分か、それ以外か」という某有名ホストの名言は、ごく普通のことを言っているにすぎません(笑)。
主客図式の歴史
このごく当たり前の考え方が理論化されたのは、意外にも1600年代です。
「我思う、ゆえに我あり」という言葉で有名なフランスの哲学者、デカルトという人が理論化しました。
しかし、主客図式の考え方自体はもっと古く、少なくとも2000年以上前の古代ギリシャ時代から存在しています。
皆さんは、ソクラテスという人の名前を聞いたことがあるでしょうか。
「なんだか社会の授業で聞いたことがあるような…」という人もいるかもしれません。
ソクラテスは今から2500年ほど前の古代ギリシャにいた思想家で、「学問の創始者」みたいな人です。
今、よくわからない科学とか政治だとかの勉強をしなきゃいけないのはこの人のせいです(笑)。少し過言ですけどね。
このソクラテスはなぜ有名になったかというと、「真理とそうじゃないものはちゃんと分けて、真理を探究することこそが大切だ!」と言ったからなんです。
僕たちの意見や感想といった「主観」とは別に、真理は「客観」的に存在すると考えて、真理を見つけようとした人なんですね。
この真理という「客観」の方を大切にしようとする考え方は現在の学問の基本となっていて、僕たちの生活にまで浸透しています。
「もっと客観的に物事を考えなさい!」と言われたり、「それってあなたの感想ですよね?」という論破方法があるのは、現代においても「客観」が大事にされていることの表れといってもいいでしょう。
主客図式のドライオーガズムへの害
「主客図式があるってのは分かったけど、それがドライオーガズムとどう関係するんだよ!」
と思う方もそろそろ出てくることでしょう。
すみません。話が長くなりました。
ここからは、「主客図式」がドライオーガズムに与える影響についてお話ししましょう。
結論から言うと、「僕たちに根付いている主客図式という考え方が、ドライオーガズムに達するのを邪魔している可能性がある」ということになります。
いったいどういうことなのでしょうか。
主客図式は、すでにお話しした通り「自分とそれ以外を分ける考え方」のことです。
これはつまり、現代人は「自分とオーガズムを切り離して考えている」ことを意味します。
しかも、すでに述べたように「客観の方が大事」と思い込んでいるので、「オーガズム」に重点を置いてしまいます。
考えてみてください。
オーガズムはとても気持ちがよい「感覚」ではありますが、その快感がすなわち「自分自身」ではないはずです。
もっと簡単に言えば、僕たちは「オーガズム」という非日常的な感覚を、オナニーやエッチといった特別な行為によって自分に取り入れ、体験させてあげているのです。
「快感を得る」という表現の仕方をするのは、自分とオーガズムを切り離して考えていることの分かりやすい例のひとつだと言えるでしょう。
実はこの考え方は、ドライオーガズムを邪魔する大きな要因のひとつとなります。
みなさんはドライオナニーをするとき、快感に対してどのように向き合っていますか?
「快感を発生させてそれに集中、どんどん気持ちよくしていって最後にはドライオーガズムに達するんだ」
「オーガズムに至ることがドライオナニーの成功だ」
と考えていませんか?
僕自身もそう考えていた時期がありますが、ドライオーガズム経験者となった今だからこそ言わせてもらうと、そのような意識の持ち方だとドライには達することができません。
射精するオナニーだとその考え方で大丈夫なんですけどね。
いや、むしろそれに慣れているからこそ、ドライオナニーでもそのように考えてしまうのでしょう。
よく「射精とドライは全く別方向の快感」だとか、「ドライに達したいなら射精の考え方を捨てろ」と言われるのはこれが理由なんです。
ではどうすればよいかというお話をしたいところですが、それにはこのシリーズ記事の主題ともいえる「タントラ」の考え方の紹介をしなければなりません。
なのでここでは詳しくお話しできないのですが、簡単に言ってしまえば「オーガズムと意識を分けて考えるのやめ、自分が快感そのものになる」ことが必要になります。
より詳しい実践の方法を知りたい方は、後続の「タントラ」を紹介する記事と、タントラをドライオーガズムに適用させて考える記事をご覧ください。
↓女性型ドライのための意識の作り方のコツはこちら
西洋思想からくる「快感」の思い込み
西洋から来た考え方のドライオーガズムへの弊害は、なにも「主客図式」だけではありません。
ここでは、もうひとつの弊害である「快感」への思い込みについて、歴史背景と共に見ていきましょう。
快楽の追及は悪か?宗教的な禁欲の教え
突然ですが、みなさんはエッチな快楽を追求することは悪いことだと思いますか?
この記事を見ている方はドライオーガズムに興味のある方が多いでしょうから、「そんなことはない」と答える人もいるかもしれません。
でも一方で、快楽の追求をしたいと思いながらもどこか後ろめたさのようなものを感じている方もいるのではないでしょうか。
それは決しておかしなことではありません。
世間一般ではエッチな快楽の追求は「恥ずかしい」とか「下品」なこととされ、それが当たり前のようにまかり通っているのですから。
かくいう僕も、ドライオナニーをしていることを現実で誰かに話したことは風俗以外ではないのです。
では、なぜこのような「世間一般の認識」は生まれたのでしょうか?
その理由のひとつとして、宗教の影響を挙げることができるでしょう。
世界で支配的な宗教であるキリスト教や仏教では、性に開放的であることは悪いことだとされてきました。
エッチなこと以外でも、食欲であったりとか金銭欲であったりとか、とにかく「欲望」の行きすぎを禁止する宗教は多いです。
宗教は、今でこそ「非科学的」として信じていない人も少なくありませんが、歴史的にみると西洋でも日本でも、宗教が生活の基盤として扱われていた時代は相当に長いです。
現代が科学技術を基盤に形成されているように、昔は宗教の教えこそが正しいと信じられていたんですね。
このように宗教は生活の基盤だったわけですから、「禁欲の精神」も当然に一般の人々に浸透していきました。
多くの宗教が禁欲を命じている理由は定かではありませんが、ひとつの考え方として「嫉妬」が挙げられます。
力関係が激しかった昔の時代のことです。権力さえあれば豪遊し、たらふく食べ、エッチなことだってたくさんすることができました。
それは、権力のない一般の人々からすると「うらやましい」ことですが、この感情は次第に「嫉妬」や「逆恨み」という憎悪に変わっていきます。
そんなときに「欲望を思いのままに発散することは悪いことだ」という教えが登場したらどうでしょう?
当然、みんな「そうだそうだ!」となるわけです。
そして、いつの時代もそのような「権力のない人々」が人口の大多数を占めていることがほとんどですから、「禁欲の教え」はどんどん広がっていきます。
結果的に、禁欲の教えを持つ宗教は世界中で支持されるようになったわけです。
話を戻しましょう。
宗教が長い間、庶民の生活の基盤であったことはすでに話しました。
ということは、当然「エッチなのは悪いこと」という教えも人々の間で根付いていきました。
それが現代においても引き継がれ、快楽の追求が「恥ずかしい」とか「下品」だとかいう風潮があるわけです。
しかし、実はこのような「エッチな欲望を押さえつける」感情も、ドライオーガズムには向いていません。
僕の経験上、ドライオーガズムに達するにはとにかく自分を解放することが必要です。
ドライには、エッチなことに対する後ろめたさも、恥ずかしいという感情も必要ありません。いや、それらはむしろ邪魔なものです。
「ドライは声を出した方がいい」とか「女の子の気持ちになることが必要」と言われるのは、これが理由です。
実際には、声を出したり女の子の気持ちになることが必須なわけではないのですが、そうするくらいの「自己の解放」が必要だということが、これらのメッセージには込められているんですね。
さて、ここまでの説明で、「禁欲の教え」に大した根拠がないこと、ドライオーガズムには欲望の解放が必要だということが分かりました。
ならば僕たちがやるべきことはひとつです。
そう、「自己を解放したドライオナニー」ですね。
西洋の自己批判-「自己実現」としての性欲解放
ところで、これまで「禁欲の教え」の歴史を見てきたわけですが、この話には続きがあります。
せっかくなので、最後にここも見ておきましょう。
宗教が支配していた世界から時代は流れ、やがて理性や科学技術が信頼されるようになっていきます。
特にそれは西洋において大きな発展を見せました。
近現代に入ると、脱宗教化が進んだことで宗教的な教えが見直されるようになったのです。
それは性欲についても例外ではなく、性欲は人間の根本的な欲望として認められました。
しかし、ここでドライオーガズムにとっては残念なことが起こります。
性欲の解放は、あくまでも「自己実現」のための方法としてみなされてしまったのです。
「自己実現」とは、言葉の通り「自己の実現」、つまり「本来の自分となる」ことを指します。
「本来の自分となる」ために性欲を解放するとどうなるでしょうか?
「綺麗な女性を抱いて独占したい」
「他人の気持ちなんて知ったことじゃない」
「とにかく気持ちよくなれればいい」
人間は本能と共に社会性を持った生き物です。
「本来の自分」になろうとだけすれば、性欲だけでなく支配欲や承認欲も同時に解放することとなってしまいます。
それは他人との関係における「社会的な自己」を実現するためのものであって、そうすることで得られるのはひとりよがりの「快感による自己拡張」なのです。
これは後の記事で話すことになると思いますが、ドライオーガズムとは「自己解放的な快感」です。
ここで二つの違いを説明すると、
・「快感による自己拡張」とは、社会(=他人との関係)における自己を実現しようとするものであり、いわば「性の解放が認められていない社会にもかかわらず、それに逆らって自分は快楽を得ている」というアピールによって自分自身の存在を主張しようとするものです。
・「自己解放的な快感」とは、世界(=無生物も含む全てのものとの関係)において自己を解放しようとするものであり、それは世界に対して自分を溶け込ませていく・一体化させていく過程で得られる快楽です。
※この部分は少し難解ですが、次回の「タントラ」章の説明で明らかになるでしょう。
つまり、西洋思想は「根拠のない禁欲」に対して自己批判を加えてレベルアップしたわけですが、結局「社会との関係性において自己を実現するためにオーガズムを利用する」という、最初にお話しした「主客図式」からは抜け出せなかったのです。
「オーガズムを利用する」ということは、結局オーガズムを自分とは違う「客観的なもの」として捉えているわけですからね。
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最後に
今回の記事では、ドライオーガズムの達成を邪魔する先入観としての西洋思想を歴史的な背景と共に見てきました。
そこには、「主客図式」や「自己実現」といった落とし穴がありましたね。
日本は早くから西洋化を目指し実現してきた国ですから、西洋的な価値観の影響は色濃く見られます。
それは決して悪いことではないのですが、最高の快感のために弊害となるのであれば取り去っておきたいものです。
ここまで非常に長い記事となってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。
次回はいよいよ非西洋の新たな世界、「③タントラ的世界認識」についてです。