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ドライオーガズムの解説可能性について

研究報告

感覚的なものに大きく関わるドライオーガズム
それはそもそも解説可能なものなのでしょうか

はじめに

ドライオーガズムは解説可能か、という問題がある
様々なドライ報告や解説を見ていると、それは千差万別である一方で、「あれは間違いだ」とか「否、あれは正しい」といった議論が絶えない。
以下はその具体例である。

ドライで痙攣するorしない
ドライは入力が大事or脱力が大事
オカズを使うべきor使うべきではない
意識はどこどこに持っていくべき…

上記はほんの一部であって、総観すれば枚挙に暇がない。

問題と原因の所在

これは恐らく人間個人の唯一性に起因する(もちろん純粋な誤情報もあるであろうが)。
それはオーガズムという、他人が追体験不可能な個人的経験の問題である。より一般化して言うのであれば、人間感性の主観性の問題である

ところで、ここからしばしばひとつの言説が導かれる。
ドライには解釈しか存在し得ず、解説不可能である。
これは事実であろうか。

分析

私見では、これは真なりとは言えない。ドライが人間の主観性に大きく依拠するからといって、そこに解釈しか存在しないわけではないからである。

もし主観性が唯一絶対のものであるならば、人間はコミュニケーション不可能である。ある現象について、個人間でなんらかの一定の合意がなければ、それについて語ることはできない

例えば、目の前にあるペンについて語ろうとするとき、相手がそもそもペンの存在を認識していなければ議論にならない。それは相互にペンの存在について合意しているからこそ可能となるものである。その上で、ペンとはこれこれのようなものである、という議論が成り立つ。
つまり、主観の間にある合意の存在を、我々は認識しなければならないのである。

しかしこれは、ドライが完全に解説可能であることを意味しない。ドライが主観に大きく依拠し、他人による追体験が不可能である以上、一定の合意はできてもそれが各個人にどう妥当するかという問題は残り続けるからである。

ドライは、無地の球形ではない(誰がどこから見ても同じものではない)。それはちょうど、ひとつのリンゴを人々が囲んで見るようなものである。

とあるリンゴは、見る方向によって形も変われば模様も変わる。だからといって、誰もそのリンゴについて言及し得ないわけではない。少なくとも、それが存在し、またおおよそ丸い形をしており、赤色が主体の模様であるということについては語り得るのである。

ドライについても同じことが言える。
例えば自身がオカズを使って達したことがないという経験は、他人もオカズを使うべきではないという言説を導くことはできない。しかし少なくとも、ドライにオカズを使ったとき並みの興奮が必要である、ということについては合意が可能なはずである。

より一般化して述べるのであれば、自身しか体験し得ない事柄のみを基に、この情報は間違いであるとか、本当のドライではないとかいった言説を展開することは本来的に不可能だということである。

もちろん一部の意図的、非意図的な完全な誤情報は除かれなければならない

結論

大切なことは、我々のようにドライについて語る者が、ドライの経験・語り口が千差万別であることを認識しつつ、それを間違いだとして完全に排除することなく、合意できる部分についての確定作業を行っていくことである。それは個人の経験を出し合い、知識の総体を作り上げていくことによって可能となる。

こうすることによって、ドライオーガズムという不定形で曖昧だったものの形が、徐々に現出してくるのではないだろうか。

当ブログは、そのための営為でもある。

以上

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